2018年 08月 31日
40年前にアメリカで始まった私のノマド・ライフ!
サンフランシスコのジャパンタウンにあるカフェ、Benkyodoだった。
このカフェは、最初にサンフランシスコを訪れた時、日系人Ⅰ世の長老ジョンが最初に連れっていってくれたBenkyoudoだ。ジャパネスクなネーミングだけど、カフェの雰囲気は、1950年代のノスタルジーが感じられるアメリカン・カフェだ。
私は毎日のように分厚い本を数冊カウンター積み、勉強していたので、MBAの仲間や教授からは「勉強堂の書生」と呼ばれていた。
後に教授やクラスメイトも、僕がいるかと、ここを訪れるようになった。また熱いディベートの場になることもあった。
このカフェは日系アメリカ人のコミュニティの場でもあり、アメリカン珈琲を飲みながらアメリカンドリームを語っていた。
日本を知らない日系アメリカ人Ⅱ世やⅢ世は、彼らのルーツである日本への憧れが強く、頭はアメリカ人だが、心は昔の良き時代の日本人が、そのまま純粋培養され残っているような不思議な感覚である。
彼らに共通して言えることは、みんな日本へのあこがれを持っていたことである。
ある日のこと、いつもの通りチップ10セントをカウンターに置き、レシートを持ってレジまでいくと、この店のオーナーはが私が置いたチップをわざわざカウンターまで取りにいき、「Save Moneyー貯金しなさい」と一言、言って僕の胸のポケットに入れてくれた。
勉強したくてもできなかった貧しい時代、日系移民に対する差別やイジメ、長い収容所暮し、
そして書生・・・それら様々な気持ちが詰まった10セントだと感じた。
この恩は「本人に返せないと思うが、将来、どこかで社会に返そう」と思ってきた。
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by seijibajo
| 2018-08-31 15:40
2018年 08月 30日
日本人が英語が下手な理由とは?
その理由は、私が23歳を過ぎてからアメリカ留学した時に分かった。
私は日本での大学は商学部だったが、ロックバンドの練習に夢中になり、ほとんど勉強はしなかった。
卒業後、アメリカへ英語留学した時、いきなりスイッチが入った。
卒業試験の結果が良かったので、幸か不幸か、その後、MBAへと進んだ。
ところが、MBAには入ったけど、授業の内容がほとんど聞き取れず、3ヶ月間、ノートは真っ白だった。
しかたなく、枕ほどある専門書を何冊も読み解き、少しずつ頭の中にビジネス脳がではじめた。
もし、日本の大学で本気で経営学を勉強していたなら、ビジネスの知識は日本語でインプットされていただろうが、初めて本気でビジネスを学んだのがMBAだったために、知識が日本語ではなく英語でインプットされた。
例えば、「会計」ではなく「Accounting」、「売上」ではなく「Revenue]、「利益」ではなく「Profit」、「税引前利益」ではなく「PBIT」といった具合に、知識が「英語脳」で保存されている。
結論から言うと「英会話のスキルアップを目標に学習しているかぎり、英語力はほどほどにしか伸びないだろうし、実践では役に立たない」と思った。
例え、TOEICで点数が伸びたとしても、実践になると「あれ、なんて言ったっけ」と本来ビジネス脳で動いていた頭が語学脳に切り替わってしまい、本来のテーマに集中できなくなる。
よく「英語は手段であって目的ではない」と言うが、「それでは、あなたの語学学習の目的は何ですか」と聞かれたときに「海外旅行をするためだ」とか、あいまいな答えしか返ってこない。
その程度でのモチベーションで、無味乾燥な語学勉強を続けることは難しい。
より具体的な目的として「ビジネスならビジネス」、「テクノロジーならテクノロジー」、「ミュージックならミュージック」といった自分が知りたい目的やテーマが必要であり、英語学習を目的にする限り力はつきにくい。
英語に限らず、中身がない、興味がわかない教材を読むほど、退屈なことはない。
ビズグリッシュ MBAの基本とビジネス英語を同時にマスターするオンライン講座 9月開講
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by seijibajo
| 2018-08-30 17:09
2018年 08月 29日
アメリカで出会った日系人1世の事業家ージョン・F
日本の大学では商学部に入っていたけど、授業をサボリ、ロックバンド活動に明け暮れていた。
気が付くと就活をすることなく卒業式を迎えブラブラしていた。
そんなある日、サンフランシスコに母方の遠縁にあたる日系人家族が住んでいると聴き、
そのファミリーを頼ってサンフランシスコへ渡った。もちろん外国に行くのは初めてだった。
9時間のフライトの後、雲の切れ間からアメリカ大陸が見えた時は、とても感動した。
空港に着くと、ゲートの出口でジョン・フジムラとその家族全員が私を迎えに来てくれていた。
ジョンは次男坊として広島で生まれ、今から120年前に横浜港からサンフランシスコの港に向け24日かけて渡ったそうだ。
当時の日本はとても貧しく、長男以外は新天地を求めて、裸一貫で船に乗り込み、海外へ移住したそうだ。
ジョンは日系人の中でも長老ですでに85歳を超えていた。
ジョンがサンフランシスコの港に着いたとき、1人の日本人から日本語で「仕事を世話してやろう」と声をかけられ、
誘われるがままに列車に乗り込み大陸奥地まで連れて行かれたという。
しかし、その先に待っていたものは、大陸横断鉄道を作るための半ば強制労働だったそうだ。
言葉も通じない場所で日本語で声をかけられ、つい心を許してしまったという。
同様に声をかけられ、連れてこられた1人の日本人と隙をみて逃げ出し、線路沿いにひたすら灼熱の砂漠を西へ西へと歩き、
何日もかけてやっとサンフランシスコにたどり着いたそうだ。
それから仕事を探し回っていたある日、大富豪と出会い、彼の邸宅の庭師や風呂焚きとして雇ってもらい、
そこで、なんとか生活の糧を得たどうだ。
ジョンは、まじめに働き続け、やがて彼の仕事ぶりを認めてもらい、少しづつお金をためてきたという。
ところが、1942年に真珠湾攻撃を機に日米開戦が勃発し、長年アメリカで築いてきた日系人の信用と財産は、アメリカ政府により没収され、家族全員がマンザナール強制収容所に収容されたとういう。
強制収容所生活が終わった1945年、ジョンは、あの大陸横断鉄道の強制労働から命からがら逃げてきたもう1人の日本人と一緒に、日本にアメリカ車を輸出する会社を立ち上げたそうだ。
彼ら二人が売り込んだ先はあのヤナセの前身だったそうだ。真っ赤なじゅうたんを歩いた先には、
会長が待ち受けていて、それから交渉が始まり、その日の内に数十台のオーダーを受けた。
もう1人の相棒は、東京で日本初のタクシー会社をつくったのを皮切りにバス会社やアメリカ発の事業を次々と興し、事業家として、大成功したそうだ。
彼は30年以上に渡り記録し続けた株式チャートを拡げ、毎晩夜中の2時過ぎまで株式投資についてレクチャーしてくれた。
サンフランシスコのダウンタウンに近いクレメント・ストリート、27番アヴェニューにあるジョンの書斎でジョンのファミリー・ヒストリーを聴くことができたのは、ビジネススクールで聴いた講義よりも臨場感があり、その内容を今でもはっきりと覚えている。
さまにジョンは私にとってビジネスの偉大なメンターだった。
私はサンフランシスコ大学大学院ビジネススクールで2年間ビジネスを学んだが、当時投資家だったジョンからアメリカの資本主義社会やアメリカのビジネスについて教わった。
今でも印象に残っている言葉は「アメリカ人の金持ちの中で、株式投資以外で金持ちになった人は1人もいない」
というジョンの言葉だった。
Thank You, Jhon!
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by seijibajo
| 2018-08-29 19:06
2018年 08月 26日
日本のビジネスパーソンの世界ランキング?!
世界の大学ランキングやMBAランキングというのは毎年発表されていますが、世界の中で日本の経営者やビジネスパーソンが世界でどれくらいの競争力があるのかは、フォーチュン500やS&P500にランクインする日本の会社CEOの数を調べるれば、あるは分程度は分かりますが、日本の平均的なビジネスパーソンや経営者の能力を世界的な指標で評価したものは私が知る限りありません。
一方、今日のようにグローバル化が進展し、会社の国籍を議論すること自体に意味をなさなくなりつつある現在、果たして日本のビジネスパーソンが外国人ビジネスエリートと競うことができるのか、
グローバル化した就職戦線でアジアやアメリカやヨーロッパのビジネス・エリートに対して、どこまで自分の価値、つまり、会社への将来の貢献度をアピールできるのかを考えなくてはなりません。
グローバル化に対応できる何らかの世界標準の人材育成が可能な教育プログラムが必要です。
グローバル対応=語学力という意味ではありません。
語学力以外に、世界標準のビジネスの知識や外国企業で働いた経験、外国人との交渉力、外国人を相手にした際のディベート能力、品格等、人間力など様々な要素が入ります。
従来のように日本の中で働くことを前提にした、グローバルな視点を欠いた教育では、グローバル人材を育成することはできません。世界的な視野と知識を持つビジネスパーソンをいかに育成するかにチャレンジします。
「MBAスタイル・ビズグリッシュ 2018年9月・開講予定!
日本語でアメリカのMBAの基礎と英語が同時にマスターできる一石二鳥のプログラムです。
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by seijibajo
| 2018-08-26 17:46
| 日本のビジネスパーソンの世界ランキング
2018年 08月 26日
外国人起業家と一緒に日本に新しい産業を興す!
2012年から休んでいたブログを今日から再開します。
実は、2012年の4月以来、1人のアメリカ人起業家が東京でスタートアップした事業のサポートを続けてきました。
彼との出会いは2011年7月に丸の内で開催されたNetworking Party(異業種交流会)でした。
2011年と言えば、東日本大震災があった年です。
震災から4ヶ月後、 その異業種交流会で当時30歳代半ばのハーバード大学大学院ビジネススクール出身のアメリカ人起業家、 Erwin Dave Gonzalesと出会い、 彼の事業に共鳴し、 JMT( Japan Medical Tourism Inc.) の事業をサポートすることになりました。
Daveは、ハーバード大学大学院で医療マネージメントを学び、その後、ハーバード大学出身のドクターやMBAと一緒に、国際医療マネージメントのコンサルティング会社を設立しました。
ハーバード卒業後、Daveは世界約60カ国を廻り、それぞれの国の基幹病院がアメリカの有名病院と同等の高い医療基準を満たすことができるよう高度なコンサルティングを提供してきました。
彼が目指していた日本での医療インバウンド事業は東日本大震災の直後の福島原発事故の影響もあり、日本を訪れる外国人患者の数が激減し、まさにDave1人で古今奮闘していた時期でした。(NHK総合「特報首都圏 外国人起業家が日本を変える」で取材を受けました。)
そんな折、ほとんど日本語ができない、彼の事業の役に立ちたいと、日本でのビジネスの遣り方とマーケティング戦略をコンサルティングし、様々な問題や課題を乗り越えながら今日までやってきました。
あれから7年、 JMT( Japan Medical Tourism Inc.) JCI認証取得コンサルティング会社として、 日本でNO1. の実績を築くことができました。
写真 NHK総合 特報首都圏「外国人起業家が日本を変える」2013年2月8日放送より
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by seijibajo
| 2018-08-26 16:29